私の「その時」は、静かに足音を立てずにやってきたと思います。
それは管理職となり1年目のことです。それまでは、現場の第一線で自分の考えや任される仕事にやりがいとプライドをもって、創意工夫を重ね、とにかく質の向上をと思い、仕事にやりがいを感じ、自分自身が主体、中心となり仕事をしてきました。
同僚や後輩からも責任がある、何かあった時は助けてくれる、そう思われていたと思います。
しかし、管理職を拝命し、第一線の実務からは一歩引いて、決定や方向性の指示を繰り返す中で、次第に部下の中で新たな出世競争が生まれ、私の見ていないところで、部下同士に陰湿な苛めがあると報告されて以降、これまで仕事そのものと、仲間に誇りを持っていた私は、自分なりに大切にしていた「誇り」を酷く汚された気持ちとなりました。
次第に勤務している時間と何を考えているか分からない、表面的な人間関係に疲労感を覚え、いつしか「仕事に行きたくない」と思うようになり、次第に、これまで円滑であった人間関係からも精神的にだとは思いますが、孤立を覚え、朝、職場が近づくにつれて動悸と、激しい頭痛を覚え、いつしか、行きたくない、例えたどり着いても、長期間自席に座っていることが叶わず、トイレに立つなどのことが増えていきました。
職場のことが四六時中、頭から離れることはなく
人こそが仕事を動かす原動力
具体的にひどく心を痛めたのは、これまで信用し、共に意見を交わし、仕事の精度の向上に向けて頑張ってきた後輩たちが、さらに年若い者、あるいは、年配で中々新しいことについていくことが難しい仲間に対して、自分のやり方や正しさを押し付け、あからさまに出来ない事を馬鹿にし、自分たちで自分の仕事に低い評価と、人こそが仕事を動かす原動力ということを忘れ、ストレスの発散を仲間内に向け(苛め)ていると知ったことが原因となります。
管理職としてバランサーの役目
はじめは、管理職としてバランサーの役目を果たそうと、介入し、再度、全体のけん引力となるよう様々な角度で、調整を図るも、誰かを贔屓しているや、その他の噂を立てられ、自分自身の思いが思わぬ方向に向いたこと、人は、人を簡単に羨みまた、陥れる事ができるのだということを肌で感じたことが大きな理由となります。
やがて、自分自身の勤務中の効率は低下し、職務中に終わらぬ仕事については、自宅へ持ち帰り、終わらすなどのことも必然となっていきました。
公私の区別がつかなくなっていく
時間の流れという点で、公私の区別がつかなくなっていく中で、次第に職場のことが四六時中、頭から離れることはなく、また夢に見、睡眠につくことすら出来ない日もありました。
そうして、自ら感じる責任感とは裏腹に「仕事に行きたくない」と思うようになっていったと思います。
勤務の継続は家族の経済的基盤を揺るがすものにもならない
正常な判断が出来ない可能性がある
まず、思い切って病院(心療内科)を受診しました。
自分が病気であり、正常な判断が出来ない可能性があるということを自分自身で自覚し、自分の逃げ道を明確にすることが必要と考えたからです。
当然、受診したところで、睡眠薬、安定剤といった気持ち程度の処方しかありません。
機能不全に陥っている自分は別、と考える事
しかし、逃げ道を作ったことにより、仕事を出来ていた自分自身と機能不全に陥っている自分は別、と考える事ができるようになり、少し気が楽になったような気がします。
また、こうした状況について、思い切って家族に実情を話すようにしました。正直、最初は自分自身のプライド、あるいは心配をかけてはいけないという思いもありました。
しかし、勤務の継続は家族の経済的基盤を揺るがすものにもならないことから、思い切って妻に事情を説明することにしました。
家庭で子育てに奮闘する妻
そうしたところ、妻からは、とにかく、「会社で座っていればいいじゃん、楽しみがないと辛いから、明日からお弁当作るから持っていって」との言葉。
家庭で子育てに奮闘する妻に、「会社で何もしなくていい」、「ただ家族のことを思い浮かべ、お昼のお弁当を楽しみにし、いつも通り帰宅すれば良い」と言ってもらえたことは自分にとって、大きな救いだったと思います。
仕事に行きたくない時のまとめ
とにかく、誰かに相談する事。
そして、辛い時間は、繰り返されるかもしれないけれど、時間の流れで言えば、二度と帰っては来ない、自分に牙をむいて向かってくることは二度とない、ということです。
次の楽しい時間を過ごすには、現実の時間がなければやってはこない、だからこそ、頭を空にしてやりすごす、耐えるということが必要なのだとそう思います。
今考えれば、他人を意のままに動かそうとしても動くものではありません、そうであるとするならば、自分自身の考え、姿勢を変えてしまえば、苦痛やプライドも傷つくことはないということです。
簡単に言えば、自分の気持ちを他人にコントロールされない、支配されない、と言い換えることも出来るかもしれません。
自分の気持ちの持ちようを人のせいにするのではなく、自分が楽しみにしているものに向けることができたのならば、例えば、私のように妻のお弁当を開く瞬間を楽しみに思えたからこそ、時間として刻まれる一瞬一瞬は、決して苦痛ではなく、楽しみを待つカウントダウンへと変わっていきました。
自分という単位で、自分の気持ちに向き合い、その時間は二度と自分を苦しめることはないのだと分かれば、長い時間の中で、現在という苦痛は、たかが知れていると、そう思えるように思います。